プログラミング自由連盟の関連論文と記事 - 2

□ユーザ・インタフェースの著作権に反対しよう□

---Against User Interface Copyright---

1991 年 10 月 20 日

プログラミング自由連盟

(LPF、League for Programming Freedom)

「SEAMAIL」Vol.6, No. 6~7

 1990 年 6 月、Lotus 社は、Lotus 1-2-3 で使われているのと同じキーストローク・コマンドに従うスプレッドシートを具体化した小さな会社 (Paperback Software) に対する著作権侵害の訴訟に勝訴した。Paperback 社は 1-2-3 からコードをコピーしたことを告訴されたのではない。互換性のあるユーザ・コマンドをサポートしただけのことで訴えられたのである。このような模倣は、近年、裁判所が著作権法の適用範囲を拡大し、我々が予想もしなかったような判決を次々に下すまでは、ごくあたりまえの行為であった。

 それから 1 週間もしないうちに、Lotus 社は、1-2-3 とほんの少ししか似ていないコマンド言語を持つスプレッドシート Quatro に関して、Borland 社を告訴した。こうしたキーストローク・シーケンスの類似性、および 1-2-3 をエミュレートするようにインタフェースをカスタマイズできる機能は、著作権の侵害だとするに十分だというのが、その主張である。

 もっと恐るべき事実がある。Apple Computer 社は、Microsoft および Hewlett Packard の両社を、Macintosh システムと部分的に似たディスプレイを持つウィンドウ・システムを具体化したとして告発し、一方、Xerox 社は、昔の Xerox Star システムからいくつかの一般的なコンセプトを引き出し、それを Macintosh システムとして具体化したことで、Apple 社を告発した。これらの訴訟では、原告側は、Lotus 事件の判決を拡張し、かなり広範囲なユーザ・インタフェースに関する著作権を確立しようとしている。Xerox 社の訴訟は技術的な理由で却下されたが、もし同社が勝訴していたとすれば、Apple 社の訴訟以上に広範囲な独占をもたらしたことであろう。

 そして Ashton-Tate 社は、Fox Software 社を、自社製品の dBase で使われているのと同じプログラミング言語と互換性のあるデータベース・プログラムを具体化したことで告発した。このいささか特異な訴訟は、1991 年に Ashton-Tate 社を買収した Borland 社によって取り下げられたものの、プログラミング言語が著作権化される可能性はまだ残っている。Adobe 社は、まだ誰をも起訴していないが、PostScript 言語に対する著作権は自分のものだと主張している。また、Wolfram Research 社は Mathematica 言語の著作権を主張し、カリフォルニア州立大学に対して、訴訟をちらつかせている。もし、あるプログラミング言語の著作権が認められたとすれば、長年にわたってその言語でプログラムを書いてきたユーザに対する衝撃は、まさに破壊的であろう。

 この論文は、主として特定のユーザ・インタフェースの著作権を扱っているが、ほとんどの議論は、より広範囲なほかの独占問題に関しても言えることだろう。

■ ユーザ・インタフェースとは何か ?

 ユーザ・インタフェースとは、ある機械を操作するためにあなたが学習しなければならないもの、言い換えれば、その機械にあなたの意志を伝えるための言語である。タイプライタのユーザ・インタフェースはキーの配列である。自動車のユーザ・インタフェースには、方向転換のためのハンドル、スピードを上げ下げするためのペダル、方向指示のためのレバーなどが含まれる。

 その機械がコンピュータ・プログラムである場合のインタフェースは、コンピュータ自身のそれ (キーボード、画面、マウス) に、そのプログラム特有のものを加えた形になる。これらは通常、コマンドやメニュー、プログラミング言語、データの画面上での表示形式などが該当する。

 ユーザ・インタフェースの著作権とは、その使い方が政府の管理下において誰かの手で独占されることを意味する。タイプライタの例で言えば、各メーカはそれぞれに異なるキー配列を使うことを強制されることになる。

■ 著作権の目的

 アメリカ合衆国憲法は、著作権の目的を「科学および有用な技術の進歩を促進する」ことだと述べている。そこには、著作権化された作品の利用者を傷つけて著作権保有者を豊かにしようなどという意図など、毛頭存在しない。

 最高裁判所は、Fox Film 対 Doyal 事件の判決の中で、その理由を次のように述べている。「合衆国の基本的な関心および (著作権の) 独占認可の基本的な目的は、著作権所有者の労働による社会への一般的な利益にある」と。

 言い換えれば、著作権は政府の管理下における一種の独占であり、それは極めて重大な形で公共の自由を束縛するので、社会にもたらすその利益が社会にとっての損失を大幅に上回る場合に限り、初めて正当化されるのである。

 個人の自由を追求する精神は、当然のことながら、どのような形態の独占にも反対の立場を採る。最高裁判所の判例や自由主義の原則に従った場合の基本的な疑問は次のようになる。つまり、ユーザ・インタフェースの著作権は、社会に対してどのような価値をもたらすのか ? そして、そのために我々はどれだけの代価を支払わなければならないのか ?

第 1 の反対理由 いま以上の開発意欲は必要ではない

 Star、Macintosh システム、1-2-3、dBase などの開発者達は、インタフェースの著作権が存在しなかったならば、それらの製品開発に十分な開発意欲 (インセンティブ) は得られなかっただろうと主張しているが、この表明が誤りであることは、彼ら自身の行動によって証明することができる。

 1986 年以前には、誰もユーザ・インタフェースの著作権の話など聞いたことがなかった。コンピュータ産業は、ユーザ・インタフェースの模倣が当然の合法的行為であるという仕組みの中で発展してきた。この仕組みの中で、現在の訴訟の原告達はその製品を開発する決定を下した。つまり、現実にそのような意志決定の場面に直面した時に、開発者達は「十分な開発意欲」を持っていると判断したのである。

 競争相手の会社がこれらのインタフェースを模倣することが自由であったとしても、それは、オリジナル製品の成功を妨げ、投資に対する大きな見返りを生み出すことの妨げにはならない。実際に、彼らは大きな成功をおさめ、それらのユーザ・インタフェースは「事実上の標準」としての地位を確立した (Xerox Star だけは、類似製品がなかったにもかかわらず、マーケティングの拙さのために失敗した)。

 たとえインタフェースの著作権が開発意欲をよりいっそう増進したとしても、それは、これ以上の改良をユーザ・インタフェースにもたらすものではない。いったん酒瓶を飲み干してしまえば、いくら吸ってももう何も出てこないのと同じである。現在のコンピュータ業界における開発意欲は極めて大きく、開発する価値のあるアイデアを持つ人間全てを動機付けるのに十分である。公共の負担によって、さらに開発意欲を刺激すれば、単に開発コストを増加させるだけに終わるだろう。

第 2 の反対理由 それは小さな会社を保護しない

 ユーザ・インタフェース著作権の提唱者達は、これによって、小さな会社が大企業の手で市場から追い出されることを防止できると主張している。しかし、周囲の状況をよく見てみよう。現在係争中のインタフェース著作権の原告席に立っているのは、いずれも著名な大企業ばかりである。著作権は、そのインタフェースが実質的な標準になったその時に、破壊的な力を持つ。しかし、弱小な会社の製品は一般に、ユーザの数も少なく、そのインタフェースはあまり人に知られていない。このような状況のもとでは、ユーザ・インタフェースの著作権は、それほど小さな会社の助けにはならない。

 例えば、1 万人の顧客を持つ小さな会社があるとしよう。ある大企業が、その商品には潜在的に 100 万人規模の市場があるが、その市場は小さな会社にはとうていカバーできない、と考えたとする。この場合に、その大企業は、類似の商品を開発し、持ち前の営業力を利用して、潜在的な市場を占有しようと努力するだろう。

 ユーザ・インタフェースの著作権は、決してこの状況を変えることはできない。著作権によって、大企業がこれまでの商品と互換性のないインタフェースを開発することを余儀なくされたとしても、それだけでは大多数の潜在的な顧客にはほとんど何の影響も与えない。彼らは、ほかのインタフェースについて聞いたこともないからである。結局、これらのユーザは大企業の製品を買う方向へ流れるだろう。

 さらに悪いことに、大企業の製品が実質的な標準の地位を獲得したとすると、ユーザ・インタフェース著作権は、小さな会社に対してより一層不利に働く。つまり、新しい顧客は、大企業の製品を選択する理由をもう 1 つ得ることになる。小さな会社は生き残るためにこの標準との互換性を提供しなければならないが、ユーザ・インタフェース著作権はそれを許さない。

 小さな会社が成功するには、独占的な手段に頼る代わりに、身軽さ、無駄のなさ、危険を冒す意欲など、彼ら独自の利点を生かすことによってである。

第 3 の反対理由 インタフェースの多様性は望ましくない

 著作権制度は、多様性を促すべく考えられたものである。制度の細部は、この目標を達成するように働く。小説や歌など伝統的な著作権の領域では、多様性が第 1 の目標である。読者は、今までに読んだことのない小説を読みたいと望んでいる。

 しかし、多様性はインタフェース設計の目標ではない。どのような種類の機械のユーザも、使いやすさのためにユーザ・インタフェースの統一を求めている。このようにして、自動車のダッシュボード記号が統一され、それによって運転免許のあるドライバなら誰でも、余分な講習を受けなくても、どの車でも運転できるようになっている。インタフェースの非互換性は、どうしてもそうすべき価値があるときにだけ支払うべき代償であって、決して利点ではない。

 優れたインタフェースを考え出すことは容易ではない。しかし、単に今までのものとは異なるインタフェースを考えるのならば簡単である。インタフェースの著作権は、そういった意味での「インタフェース開発」を促進するだろう。その結果、無意味な非互換性が氾濫することになる。

第 4 の反対理由 意味のある競争が減少する

 インタフェース著作権が支配する環境下では、すでに評価が確立した製品に対して、互換性を持たせた上での製品競争がなくなってしまう。ユーザから見ると、違うブランドの製品に乗り換えるために、もう一度訓練をやり直さなければならない。

 しかし、ユーザとは、たとえそれによってかなり大幅な改善がもたらされるとわかっていても、訓練のやり直しをしたがらないものである。例えば、何十年か前に考案された Dvorak キーボードのキー配列は、標準の QWERTY 配列と比較して、より速くより正確にタイプできるものであるが、現在ほとんど一般には使われていない。新人のタイピスト達でさえ Dvorak を練習しようとはしない。彼ら (彼女ら) は、世の中で一般に使われているタイプライタのキー配列を学習することを望む。

 このように、消費者側で余分な努力を必要とするような代替製品は、実質的な競争相手とはなり得ない。確立されたインタフェースの独占は実際に、それによってアクセスできる機能の独占をもたらす。商品の価格は上昇し、技術進歩は停滞する。メーカにとっては幸運な状況であるが、社会一般にとっては良いことではない。

第 5 の反対理由 非互換性はなくならない。

 もし、自動車のハンドルに 50 年間のインタフェース著作権が与えられていたとしたら、どうなっていたであろうか ? その期限はつい最近まで続いていたはずである。その著作権の有効期間中、方向転換のためにジョイスティック、レバー、ペダルなど、さまざまなインタフェースを持つ自動車が登場したことであろう。我々ユーザは、運転を覚えるのにブランドを選ばなくてはならず、また車種の変更は容易なことではなかったであろう。

 著作権の有効期限が切れれば、メーカは、現存するインタフェースの中で一番良いものに切り換えることができるようになる。しかしながら、もし Ford 社の車は丸ハンドルで動かし、GM 社の車はペダルで動かしていたとすれば、どちらのメーカにとっても、これまでの古い顧客を見捨ててインタフェースを切り換えるのは、容易なことではあるまい。単一のインタフェースへの統合には、おそらく何十年かの時間を要したであろう。

第 6 の反対理由 ユーザの行なう投資は開発者側よりも大きい

 現在の訴訟事件の原告達は、それらのユーザ・インタフェースが、自身の巨額な投資を表すものだと主張している。

 実際には、コンピュータ・プログラムのユーザ・インタフェース設計に費やされる労力は、プログラム自体を設計する費用に比較して一般に少ない。ユーザ・インタフェースに多額の投資をしているのは、それを使うために訓練を行なっているユーザである。ユーザは、1-2-3 の使い方を学ぶのに、Lotus 社がプログラム全体の開発に要した以上の時間と金を消費している (Lotus 社がインタフェースの開発にコスト全体のどれだけを使ったかは知らないが)。

 従って、もし投資額の大きさが所有権を正当化するものであるならば、ユーザこそが所有者になるべきである。誰が (市場で) それを使ってよいかを決定する権利は、ユーザに与えられるべきである。(1989 年 1 月中旬の)「Infoworld」誌によれば、コンピュータ・ユーザは一般に、ユーザ・インタフェースの著作権は有害だろうと考えている。

第 7 の反対理由 ソフトウェアの共有に対する差別

 ユーザ・インタフェースの著作権は、フリーウェアやシェアウェア、あるいはパブリック・ドメイン・ソフトウェアといった形での、ソフトウェアの自由な再配布を差別するものである。

 所有権が明確なプログラムの場合に、そのインタフェースをライセンスの対象にすることは可能かもしれない。所有者にその意志があれば、これらのライセンスは一般に、コピーごとに一定の料金を支払うことを要求するだろう。自由に再配布可能なプログラムの場合には、その料金を集める方法は全く存在しない。その結果、そのような所有権のないソフトウェアではかなり多くの種類のユーザ・インタフェースを利用することができなくなり、しかもその範囲はますます拡大するであろう。

 自由に再配布可能なこれらのプログラムの作者達は、社会に対して、それらのプログラムを共有し、その動作を自由に研究し、時にはそれを変更する権利を与えようと考えているのである。これは、社会的な奉仕の一種であるが、技術革新ほど一般なものではない。しかし、ある種類の寄付行為を制約し、別の種類の技術革新だけを促進するのは、あまり意味のあることではないだろう。

第 8 の反対理由 著作権は脅迫の道具になり得る

 インタフェース著作権の適用範囲があまりにあいまいで潜在的に広いために、全てのプログラマが誰かに訴えられる可能性がある。ほとんどのプログラムはインタフェースを必要としている。そして、そのインタフェースを設計するためには、いつかどこかで見たアイデアを土台にする以外に方法はない。現在よく使われているものと類似性を持たないインタフェースを実用的な形で考え出せるのは、偉大な天才だけであろう。従って、ほとんど全てのプログラム開発プロジェクトは、インタフェース侵害の危険にさらされることになる。

 「国を守るため (自分の権利を守ること) には 100 万ドルかけてもよいが、貢ぎ物 (権利、主張を捨てロイヤリティを支払うこと) には 1 セントも出すな」という外交原則は、今日のビジネスの世界では全く尊重されていない。顧客や投資家は通常、訴追の標的になった企業を敬遠する。最終的には裁判に勝つかもしれないが、それには長い時間がかかるし、もしかしたらそれ以前に破産してしまうかもしれない。従って、ロイヤリティを支払うか、あるいは告訴されるかの選択を迫られた場合に、たとえ勝訴の可能性があった (権利を守る方) としても、たいていの企業はお金を支払う方 (権利を捨てる貢ぎ物の方) を選ぶのである。

 こうした企業行動のパターンはよく知られているので、ある種の人間はそれを利用して、抗議文を送ったり、勝てそうもない訴訟を見越して脅かしたりする。インタフェース著作権が何らかの形で存在する限り、このような脅迫行為がより広範囲にわたって展開されるだろう。

第 9 の反対理由 有用な技術革新が阻害される

 インタフェース技術は時間をかけて除々に発展していくという性質を持っているので、事実上、インタフェース著作権は技術進歩を鈍化させる。

 十分細部まで完成されたインタフェースが、孤独な巨匠の全身全霊を込めた傑作として作り出されることはあまりない。優れたインタフェースは、過去の試みから何かを学びとりながら、いくつかの相異なるグループによって繰り返し具体化が行なわれた結果として生まれてきた。例えば、Macintosh のインタフェースは、以前の Xerox 社や SRI 社で、そしてそれ以前に SAIL(スタンフォード人工知能研究所) で試行されたアイデアに基づいている。Xerox Star もまた SRI 社や SAIL からインタフェースのアイデアを引き継いでいる。1-2-3 のインタフェースは Visicalc やその他のスプレッドシートのそれを自分なりに改良したものであり、dBase の場合はジェット推進研究所で開発されたプログラムを起源とする。

 こうした進化の過程は、交響曲や小説、映画などのそれとは異なり、むしろ民族芸術の発生に類似している。我々が奨励すべき進歩は、ほとんどの場合は、すでにほかの誰かが作り出した成果物に対する小さな部分的変更である。もし、それぞれのインタフェースに著作権が認定されると、そうしたアイデアを具体化するのは難しくなる。たとえ改良の対象になったインタフェースの著作権所有者が許可を与えてくれるとしても、そこに至る手続きのわずらわしさと費用を考えると、よほどの人間でないかぎり嫌気がさしてしまうだろう。

 ユーザは、プログラムを使いやすく、速くするような小さな漸進的変更を歓迎する。このことは、変更が上位互換であること、または周知のインタフェースのほんの一部分にしか影響しないことを意味する。このようにして、コンピュータのキーボードには、通常のタイプライタにはないファンクション・キーや矢印キー、抹消キー、コントロール・キーなどが追加された。しかし、もともとの文字キーの配列は変わっていない。

 著作権法では、このような部分的な変更は許されない。新しいインタフェースの主要な部分が著作権化されたインタフェースと同じであれば、その新しいインタフェースは違法となる。

第 10 の反対理由 開発者もインタフェース著作権を望んでいない

 1989 年の ACM Conference on Computer-Human Interaction において、Emory School of Law の Samuelson 教授は、ユーザ・インタフェースの著作権問題に関する「模擬裁判」を提案し、会議の参加者 (ユーザ・インタフェースの研究者および開発者) に対して、この問題に関するアンケートを行なった。

 回答者の圧倒的多数が、ユーザ・インタフェース著作権の全ての側面に対して反対の立場を表明した。その賛否の比率は、ある側面に関しては反対が 4 に対して賛成はわずか 1 であった。ユーザ・インタフェース著作権がこの分野の研究にとって、有害かそれとも助けになるかという質問に対する回答は、「有害」を 1、「助けになる」を 5 とする 5 段階評価で、平均 1.5 という結果であった。*1

 ユーザ・インタフェース著作権を提唱する人々は、それが、ユーザ・インタフェース開発者の地位をより安全なものにし、より高い収入をもたらすだろうと、甘いことばで語っている。しかし、この調査結果では、想定された受益者達自身が、「余計なお世話はやめてほしい」と言っている。

【脚注】

*1

…全体の結果については「CACM」誌 1990 年 5 月号を参照されたい。


■ あなたは本当にユーザ・インタフェースの著作権を望んでいるのか ?

 ビジネスにとって、顧客を「封じ込める」ことは一時的には有利である。しかし、独占的なオペレーティング・システムのベンダ達がすでに痛い目を見たように、そうした営業戦略は、結局のところ顧客からの反発を生み、オリの中からの脱走を考えさせるように仕向けることになる。長期的には失敗に通じる。

 つまり、ユーザ・インタフェースの著作権を許すと、我々の社会は、ビジネス・コミュニティにおける反生産的な考え方を助長することになる。どのビジネスもこのような誘惑に抵抗できるわけではない。だから我々は、そうした誘惑の芽を摘みとるべきだと考える。

■ 結論

 ユーザ・インタフェースの独占は、ユーザにとっても役に立たないし、また科学および有用な技術の進歩を促進することにもならない。ユーザ・インタフェースは、数年前までは議論の余地もなくそうであったように、全ての人間の共通の財産であるべきである。

■ あなたにできること

LPF への連絡は下記の宛先まで、電話、電子メールまたは郵便でお願いしたい。

League for Programming Freedom
1 Kendall Square #143
P.O.Box 9171
Cambridge, MA 02139
U.S.A
電話番号 (617)243-4091
電子メール league@prep.ai.mit.edu
House Subcommittee on Intellectual Property
2137 Rayburn Bldg.
Washington,DC 20515
U.S.A


Senate Subcommittee on Patents,Trademarks and Copyrights
United States Senate
Washington,DC 20510
U.S.A

 この法令を、より無害な別の形で解釈することも不可能ではないが、個々の EC 加盟諸国の政府が確固たる方針を打ち出さない限り、裁判官達がそのような解釈に味方するとは思えない。各国政府の説得には、プログラマやユーザからの政治的圧力が必要である。この問題について働いているロビイストによれば、ヨーロッパの議員のほとんどが、コンピュータのことをよく知らず、インタフェースの著作権がどれほど有害であるかを理解することができない。従って、ヨーロッパのプログラマが為すべきことは、自分達の選良を教育することである。

 アイデアの 1 つとしてはまず、あなたの議員に 1-2-3 の基本を教えることから始めること。コマンド言語の学習にどれだけの労力が必要かを理解してもらったあとで、実はまだ全体の 10 分の 1 しか教えていないのだと告げる。このやり方で、確実に我々の主張したいことは伝えられるはずである。

 政治的な有効性を達成するには組織が必要である。我々の連盟 LPF は、現在、フィンランド、ドイツ、イギリス、オランダ、ノルウェー、スイスに存在する (イギリスでは Edinburgh Computing and Social Responsibility Organization もまたこの問題を取り扱っている)。あなたの国の LPF に関する情報、または新しい組織を結成するためのアドバイスについては、米国の LPF(前頁参照) まで問い合わせられたい。